映画・演劇その他 メディアで発表したレビュー 2004【お勧め度(満点★5)】
彼が2004年どんな映画を観たのか、そしてそれをどう評価したのかが一目瞭然。 何を観ようか迷った時の参考に。
アメリカの大統領専用機にも積まれている権威あるジャーナル誌。ある若手記者の書く記事はどれも他社が舌を巻く特ダネや内幕記事ばかり。が、それらが架空の捏造記事である可能性が浮上した。編集長が本人に尋ねても、証拠を更に捏造してシラを切るエリート嘘つき記者。これまでの人望厚き編集長が冒頭で突然解雇され、昨日まで同僚記者だった人間が新編集長になったばかりという設定が横軸となっているのが実に巧い。エリート記者を詰問する彼の苦悩、新編集長の暴走かと誤解した部下たちの反発…。なんとこれが実話だそうだ。まさに神様の演出(©奥崎謙三)。 (初出・REAL東京)
すべてがほっこりした映画だ。リトル・テンポのまったり感、ドライ&ヘヴィーのどっぷりと沈潜させられるエコー、ヒマワリのパワーズ・オブ・テン…。だから「茶の味」なのだ。うれしいのは、上映の冒頭にGrasshoppa! Film とクレジットされていたこと。どれも「Grasshoppa!」の世界の一環であり、だから「茶の味」、「お茶摂取気分の作品です」という意味のタイトルなのだ。 三浦友和が催眠療法士という設定もいいし、浅野忠信が「兄さん、また例のあれ、やってくださいよ」といい、深いリラクゼーションに入り内的宇宙に遊んだ後、「兄さん、今日もすげえ良かったっす。あれ、やばいっすよお」と無邪気な笑顔で嬉しがってる場面の良さ。この場面は、カンヌでオープニング作品として上映された時はバカ受けだったという。それはそうだろう。サマー・オブ・ラブ以来、社会&文化に当たり前のものとして流れている欧米のサイケデリック文化、ニュー・エイジ文化である。映画「ウェイキング・ライフ」の上品な室内楽、CD「カフェ・デルマー」シリーズのラウンジ・テイストの成熟ぶり。 主役の女の子・じいちゃんなど、まさに「ヤバイ版ちびまる子」。まる子プロデューサーとして明かすが、ちびまる子も実はニュー・エイジを確信犯的に忍ばせてある。石井監督はそれを嗅ぎ分けていたのではないか。「茶の味」のそれをこうして今嗅ぎわけたように。 余談ながら、三池崇史監督が「新・仁義の墓場」で岸谷五郎の顔の造作に自分を投影した(と僕が勝手に感じた)ように、石井克人監督は自分の中学時代にそっくりということで主役の少年を起用したのは明白だ(と僕は勝手に感じた)。 (未発表ロング・ヴァージョン)
70年代B級シネマへのオマージュ大作その後編は、前編より渋くなったとはいえ、ジャンクな濃さは健在。ビル(デビッド・キャラダイン)が笛を吹く場面は、彼が主演の「沈黙のフルート」へのオマージュであり、それはブルース・リーが原案を書いた映画である。タランティーノがそれを知らぬわけもなく(前編の「死亡遊戯」ルックを含め)全編通じてブルース・リーに多大なリスペクトを捧げているわけだ。ちなみに、ビルが女主人公を呼ぶ時に伏字だったその理由はラストの人物紹介で明らかになるが、不親切にも字幕無しなのでご注意を。 (初出・REAL東京)
70年代B級シネマへのオマージュ大作の後編は、前編より渋くなったとはいえ、枝葉の部分満載のジャンクな濃さは健在。ビル(デビッド・キャラダイン)が笛を吹く場面は、彼が主演の「沈黙のフルート」へのオマージュであり、それはブルース・リーが原案を書いた映画である。タランティーノがそれを知らぬわけもなく(前編の「死亡遊戯」ルックを含め)全編通じてブルース・リーに多大なリスペクトを捧げているわけだ。そういえば、千葉真一がサニー千葉と名乗り海外進出し始めたのもブルース・リーがきっかけだった。ちなみに、ビルが女主人公を呼ぶ時に伏字だった理由はラストの人物紹介で明らかになるが、不親切にも字幕無しなのでご注意を。無責任なことを言えば、2本に分けず怪作として公開していたら、映画史的にはより痛快だった。 (若干長い未発表版)
人はどういう瞬間に離婚を決意するのか? 特に米国では、巨額の金の得失を賭けた裁判ゲームまでついてくるから日本以上に大変な決断である。本作は、次々と離婚し成りあがる魔性の女(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)と、どんな不利な離婚裁判も連勝のやり手弁護士(ジョージ・クルーニー)のだまし合いコメディ。監督・製作・脚本を務めるコーエン兄弟の作品は、毎回手堅く面白い。内包する大小さまざまなエピソードが人生そのものの比喩となっているため、さながら同心円の曼荼羅のようだ。肩のこらぬ、それでいて軽すぎない佳作。 (初出・REAL東京)
予備知識なく観たらコロンバイン高校の銃乱射事件の映画だった。事件までの校内の様子を複数の生徒の一人称という形で何ヴァージョンも描写していく。観客が各生徒の中に入ってその日を体感する構成はスタイリッシュですらある。だからタイトルの由来も「群盲、象を撫でる」というわけだ。監督は、オーディションで高校生を集め、自分の人生と重ね合わせた台詞を即興で言わせ、脚本を作っていった。よって事件に忠実なわけではない。その点が食い足りないともいえるし、だからこそ切ない空気がリアリティーをもって伝わるともいえる。一見の価値あり。 (初出・REAL東京)
できるだけ予備知識を持たずに試写を観るようにしているため、この映画のことを勝手に「透明感溢れるせつない青春映画」だとイメージしていた。半分正しかった。予想外だった半分は、米国コロンバイン高校の銃乱射事件だったことである。とはいえ、同じテーマをアポなし取材で掘り下げた「ボーリング・フォー・コロンバイン」とはまったく違うアプローチだ。 同じ日の同じ時刻になるまで、学校のいろんな場所で交わされている人間模様を、いろんな生徒の一人称で何度も何度も描写していく。交点では、さっきの場面が別の角度から映し出される。観客はその日の校内を、いろんな人間の中に出入りしてインタラクティブに体感する。それは実は神のように遍在することとイコールである。方法論として実にスタイリッシュでもある。タイトルは「群盲、象を撫でる」から来ている。 実際の高校生から選んだ役者たちに、自分の役を自分の人生と重ね合わせ、自分の体験を盛り込んだ台詞を即興で言わせ、作っていった。役名も本名だ。だから事件の原因究明はない。そこがいささか食い足りないともいえるし、だからこそ切ない空気がリアルに伝わるともいえる。一見の価値あり。 (未発表ロング・バージョン)
「ナコイカッツィ」
逃亡者の女が村でかくまわれる物語。3時間に圧倒されるべし。村上春樹的な抑制された語り口も絶品。通常のハッピーエンド映画ならそろそろエンドマークが出そうなあたりまでで1時間。そして村には少しずつ暗い気配が漂い始める。どす黒く覆われ尽くした時、映画は崇高ささえ帯びて一気に終了する。あなたの楽しみを損ねぬようかなり言葉を選んで紹介しているわけだが、ラスト30分の場面でメインを務める2人は明らかに「神」の比喩である。「北欧映画の根底に流れるのは"神"の視線」という淀川長治氏の言葉は今更ながら至言だ。 (初出・REAL東京)
その濃厚さと重量と素晴らしい文体の3時間に圧倒されるべし。通常のハッピーエンド映画ならそろそろエンドマークが出そうという展開まで1時間。そして、そのあたりから少しずつ物語には暗い気配が漂い始める。その後すべてを費やしてどす黒さが頂点に達した時、映画は崇高さすら帯びて一気に終了する。あなたの楽しみを損ねぬよう、かなり言葉を選び紹介しているのだが、ラスト30分でメインを務める2人が「神」の比喩であることだけは書いておこう。「どの監督の作品であろうと、映画にはお国柄と言うものがあり、アメリカ映画の根底に流れるのは"やったらやれる"という精神だとしたら、北欧映画にあるのは常に"神"という視点だ」淀川長治氏がかつてそう語っていたことが思い出される。 (若干長い未発表ヴァージョン)