映画・演劇その他 メディアで発表したレビュー 2004【お勧め度(満点★5)】

 
 

彼が2004年どんな映画を観たのか、そしてそれをどう評価したのかが一目瞭然。
何を観ようか迷った時の参考に。

「血と骨」 高田文夫が語っていたとおり「最凶のたけしが観られる映画」である。主人公の生き様に韓民族を象徴させてはならない。これは寺内貫太郎一家同様、純粋に主人公の個的な気質である。たまたまそれにカプサイシン(アッパー)系の民族的土壌が加わっているから、家族はそりゃもう大変なわけだが。「どす黒い求心力を持った磁場」という意味では、川西某(詳細は根本敬氏の著作物を参照のこと)と同様である。それにしても、たけしは今回のように他の監督作品で役者に専念しても凄いことになっている。座頭市リメイク版製作時、監督としての彼が浅野忠信を評して「その役者をずっと観ていたいと客に思わせるのが良い役者」と表現していたが、たけしこそがその代表例だ。寺島進と一瞬同じ画面に映りこみ、北野映画のテイストが漂うスリリングな瞬間があった。北野映画の宇宙はその匂いだけでも御飯3杯はいけるほどに拡散と深化を遂げていた。
(未発表)
「クリスマス・クリスマス」

小劇場ファン必見。久本雅美や柴田理恵が画面に映ると逆にメジャーすぎて違和感を覚えるほど下北沢テイストの作品。なのに貧乏くさくなく本多劇場でウェルメイドな演劇を観るような映画(別にザ・スズナリでも良いのだが)。何といっても主演の大倉孝二が良い。WAHAHA本舗のすずまさ原作にもかかわらず、まるで本拠地ナイロン100℃のKERA脚本のように彼の魅力が引き出されている。KERAの初監督作が青春群像カルト作「1980」でなく、こんな感じだったらどうだったか…。そんな平行宇宙も楽しめる。
(初出・REAL東京)
「レディ・ジョーカー」
今も謎だらけの「グリコ・森永事件」に想を得た小説の映画化。当時囁かれたさまざまな風聞(昔解雇された従業員の私怨、部落差別問題、朝鮮人差別問題、警察内部説…)をすべて盛り込んだ仮説でぐいぐい押して行く。よく映画化できたものだ。これだけ盛り込んでどう着地させるのかとイメージを膨らませていると突然すとんと終わるのだけは如何なものか。トム・クルーズ主演「コラテラル」もそうだが、そういうトレンドなのか。どちらも後から考えると細かい所で不備が目立つ点も似ている。広げた風呂敷の仕舞い方にも頭を絞ってほしい。
(初出・REAL東京)
「コラテラル」  
「ニュースの天才」

アメリカの大統領専用機にも積まれている権威あるジャーナル誌。ある若手記者の書く記事はどれも他社が舌を巻く特ダネや内幕記事ばかり。が、それらが架空の捏造記事である可能性が浮上した。編集長が本人に尋ねても、証拠を更に捏造してシラを切るエリート嘘つき記者。これまでの人望厚き編集長が冒頭で突然解雇され、昨日まで同僚記者だった人間が新編集長になったばかりという設定が横軸となっているのが実に巧い。エリート記者を詰問する彼の苦悩、新編集長の暴走かと誤解した部下たちの反発…。なんとこれが実話だそうだ。まさに神様の演出(©奥崎謙三)。
(初出・REAL東京)

演劇リコメンド「シベリア少女鉄道:vol.11 : VR」

上演3分の2が過ぎたころ、それまでのセリフや演技に込められた裏の意味が一気に明かされ、場内は爆笑の渦。そんな劇団だ。今回はどういう仕掛けでやらかすのか。宣伝デザイン&コピーには毎回そっと手掛りがちりばめられているが、今回は遊園地にいるサラリーマン2人の写真と、「大五郎〜!!」」「ちゃ〜ん!!」「大人になるってこういうこと」「おかしい時には素直に声を出して笑って」「人間の本来の姿」なるフレーズ…何かが臭う。「幼児とアルツハイマーの円環」といったテーマかもしれない。全っ然違うかもしれない(笑)。
(初出・REAL東京)
「茶の味」 3作目はニューエイジ家族漫画を実写でやってのけた…監督が『ちびまる子』に言及している由縁だ。対極に位置づけられがちな暴力的デビュー作『鮫肌男と桃尻女』も実は冒頭の文から寺島進の独白までニューエイジ思想に溢れる作品で、根は同じである。今回のタイトルは「各自お茶をほっこり味わいながら観るソフト」という意味に違いない。だから巨大化するヒマワリ(元ネタは『パワーズ・オブ・テン』)、リトル・テンポのダブも確信犯。となると同監督の連作DVD『Grasshoppa!』とも根は同じだ(ちゃんとGrasshoppa! Filmと冒頭に出る)。
(初出・REAL東京)

すべてがほっこりした映画だ。リトル・テンポのまったり感、ドライ&ヘヴィーのどっぷりと沈潜させられるエコー、ヒマワリのパワーズ・オブ・テン…。だから「茶の味」なのだ。うれしいのは、上映の冒頭にGrasshoppa! Film とクレジットされていたこと。どれも「Grasshoppa!」の世界の一環であり、だから「茶の味」、「お茶摂取気分の作品です」という意味のタイトルなのだ。
三浦友和が催眠療法士という設定もいいし、浅野忠信が「兄さん、また例のあれ、やってくださいよ」といい、深いリラクゼーションに入り内的宇宙に遊んだ後、「兄さん、今日もすげえ良かったっす。あれ、やばいっすよお」と無邪気な笑顔で嬉しがってる場面の良さ。この場面は、カンヌでオープニング作品として上映された時はバカ受けだったという。それはそうだろう。サマー・オブ・ラブ以来、社会&文化に当たり前のものとして流れている欧米のサイケデリック文化、ニュー・エイジ文化である。映画「ウェイキング・ライフ」の上品な室内楽、CD「カフェ・デルマー」シリーズのラウンジ・テイストの成熟ぶり。
主役の女の子・じいちゃんなど、まさに「ヤバイ版ちびまる子」。まる子プロデューサーとして明かすが、ちびまる子も実はニュー・エイジを確信犯的に忍ばせてある。石井監督はそれを嗅ぎ分けていたのではないか。「茶の味」のそれをこうして今嗅ぎわけたように。
余談ながら、三池崇史監督が「新・仁義の墓場」で岸谷五郎の顔の造作に自分を投影した(と僕が勝手に感じた)ように、石井克人監督は自分の中学時代にそっくりということで主役の少年を起用したのは明白だ(と僕は勝手に感じた)。
(未発表ロング・ヴァージョン)

「69」  
「恋の門」  
「ヴァン・ヘルシング」  
演劇リコメンド「空飛ぶ雲の上団五郎一座 キネマ作戦」 衝撃的な第1回公演から2年。副題からも想像できるように、今回は映像を駆使した趣向となるとのこと。「浅草喜劇の新時代ヴァージョン」という基本コンセプトに「スラップスティック映画&モンティ・パイソン」的要素が加わるわけだ。何でもやってくれい。"アチャラカの復権"とはそういうことだ。アチャラカとは当時の新しいもの・垢抜けた趣向も満載の喜劇であるはずだから。ドランクドラゴン、エレキコミックなど日替わりゲストの若手お笑いたちの名にわくわくする気分さえ、当時もかくやと疑似体験できる(追加で昭和のいるこいるも決定)。
(初出・REAL東京)
「白いカラス」 ねたバレにならぬよう、細心の注意を払ってレビューすべき映画である。冒頭、アンソニー・ホプキンス演ずる大学教授は黒人差別発言の嫌疑をかけられ辞職させられる。二コール・キッドマン扮する掃除婦の心もこれまでの人生で傷だらけになっている。この2人が出会い、コミュニケートする物語は何とも哀しい。9.11以降、何一つ確かな基準がなくなってしまったアメリカは途方にくれている。だから、祈るように基本に立ち返り、個的アイデンティティーを見据え直そうとしているのだ。脂の乗っている2人の格調と繊細さは一見の価値あり。
(初出・REAL東京)
「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」  
「アメリカン・スプレンダー」 病院事務の中年独身男が自分の日常を漫画にして発刊、やがて読者の女性と結婚、彼女との生活もまた漫画化される…。アメリカで起こっている実話であり、そんな彼の人生を映画化した奇妙な作品。個的で瑣末なものと思い込んでいる各自の生活(趣味嗜好)は、実は普遍的な共感と地続きなのだ。日本にもエッセイ漫画というジャンルは存在する。「ちびまる子ちゃん」登場以来18年、今、最前線では福満しげゆき・若松あやのらが気を吐いている。平凡だと思い込んでいるあなたの日常も実は固有のドラマに満ちている…それに気づいた者勝ちですぞ。
(初出・REAL東京)
「熊笹の遺言」 3人のハンセン病患者のドキュメンタリー。開巻当初、視覚的インパクトがあまりに大きく、動揺したことは否めない。しかし彼らの日常を見つめていくにつれ、動揺の理由は単に見慣れていなかったのだとわかってくる。次第に3人が「きっぷのいい老人」「昔の日本の上品な語り口を持つ老女」「著述家の男性」として等身大に見え始める。「心」を包む「肉体」と呼ばれる衣服は、病気や事故で変型することもある。外見に惑わされず個々人の本質を捉えていく視座をこの映画は圧倒的な実感で伝え、私の居住まいを正してくれた。
(初出・REAL東京)
「カーサ・エスペランサ 赤ちゃんたちの家」  
「シルミド」

 
「赤線」  
「スクール・オブ・ロック」

 

「キル・ビルVol.2」

70年代B級シネマへのオマージュ大作その後編は、前編より渋くなったとはいえ、ジャンクな濃さは健在。ビル(デビッド・キャラダイン)が笛を吹く場面は、彼が主演の「沈黙のフルート」へのオマージュであり、それはブルース・リーが原案を書いた映画である。タランティーノがそれを知らぬわけもなく(前編の「死亡遊戯」ルックを含め)全編通じてブルース・リーに多大なリスペクトを捧げているわけだ。ちなみに、ビルが女主人公を呼ぶ時に伏字だったその理由はラストの人物紹介で明らかになるが、不親切にも字幕無しなのでご注意を。
(初出・REAL東京)

70年代B級シネマへのオマージュ大作の後編は、前編より渋くなったとはいえ、枝葉の部分満載のジャンクな濃さは健在。ビル(デビッド・キャラダイン)が笛を吹く場面は、彼が主演の「沈黙のフルート」へのオマージュであり、それはブルース・リーが原案を書いた映画である。タランティーノがそれを知らぬわけもなく(前編の「死亡遊戯」ルックを含め)全編通じてブルース・リーに多大なリスペクトを捧げているわけだ。そういえば、千葉真一がサニー千葉と名乗り海外進出し始めたのもブルース・リーがきっかけだった。ちなみに、ビルが女主人公を呼ぶ時に伏字だった理由はラストの人物紹介で明らかになるが、不親切にも字幕無しなのでご注意を。無責任なことを言えば、2本に分けず怪作として公開していたら、映画史的にはより痛快だった。
(若干長い未発表版)

「ディボース・ショウ」

人はどういう瞬間に離婚を決意するのか? 特に米国では、巨額の金の得失を賭けた裁判ゲームまでついてくるから日本以上に大変な決断である。本作は、次々と離婚し成りあがる魔性の女(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)と、どんな不利な離婚裁判も連勝のやり手弁護士(ジョージ・クルーニー)のだまし合いコメディ。監督・製作・脚本を務めるコーエン兄弟の作品は、毎回手堅く面白い。内包する大小さまざまなエピソードが人生そのものの比喩となっているため、さながら同心円の曼荼羅のようだ。肩のこらぬ、それでいて軽すぎない佳作。
(初出・REAL東京)

「エレファント」

予備知識なく観たらコロンバイン高校の銃乱射事件の映画だった。事件までの校内の様子を複数の生徒の一人称という形で何ヴァージョンも描写していく。観客が各生徒の中に入ってその日を体感する構成はスタイリッシュですらある。だからタイトルの由来も「群盲、象を撫でる」というわけだ。監督は、オーディションで高校生を集め、自分の人生と重ね合わせた台詞を即興で言わせ、脚本を作っていった。よって事件に忠実なわけではない。その点が食い足りないともいえるし、だからこそ切ない空気がリアリティーをもって伝わるともいえる。一見の価値あり。
(初出・REAL東京)

できるだけ予備知識を持たずに試写を観るようにしているため、この映画のことを勝手に「透明感溢れるせつない青春映画」だとイメージしていた。半分正しかった。予想外だった半分は、米国コロンバイン高校の銃乱射事件だったことである。とはいえ、同じテーマをアポなし取材で掘り下げた「ボーリング・フォー・コロンバイン」とはまったく違うアプローチだ。
同じ日の同じ時刻になるまで、学校のいろんな場所で交わされている人間模様を、いろんな生徒の一人称で何度も何度も描写していく。交点では、さっきの場面が別の角度から映し出される。観客はその日の校内を、いろんな人間の中に出入りしてインタラクティブに体感する。それは実は神のように遍在することとイコールである。方法論として実にスタイリッシュでもある。タイトルは「群盲、象を撫でる」から来ている。
実際の高校生から選んだ役者たちに、自分の役を自分の人生と重ね合わせ、自分の体験を盛り込んだ台詞を即興で言わせ、作っていった。役名も本名だ。だから事件の原因究明はない。そこがいささか食い足りないともいえるし、だからこそ切ない空気がリアルに伝わるともいえる。一見の価値あり。
(未発表ロング・バージョン)

「ロスト・イン・トランスレーション」  
「永遠のモータウン」  
「メイ」  
「スイミング・プール」

 

「NY式ハッピーセラピー」  

「ナコイカッツィ」

セリフ無しで様々な映像と音楽で織り成すカッツィ3部作完結編。渦巻・キメ細かい煙・行進・ループ処理された演舞…裸眼立体視できる映像も多いから、年配者が作ったビデオドラッグ的側面も確信犯的に存在する。様々な体操運動や動物の疾走映像に続く「会話する顔のアップの超スロー版」は圧巻。顔面の微妙な筋肉運動から立ち昇る追従・恐れ・疑念・歓喜に、人間も動物なのだと実感する。ただし「複雑に進化した」動物であり、でも所詮は、複雑に進化した「動物」なのだ。動物はこんな映像作品をも創り、今「戦争」という概念を思索する。
(初出・REAL東京)
「ドッグヴィル」

逃亡者の女が村でかくまわれる物語。3時間に圧倒されるべし。村上春樹的な抑制された語り口も絶品。通常のハッピーエンド映画ならそろそろエンドマークが出そうなあたりまでで1時間。そして村には少しずつ暗い気配が漂い始める。どす黒く覆われ尽くした時、映画は崇高ささえ帯びて一気に終了する。あなたの楽しみを損ねぬようかなり言葉を選んで紹介しているわけだが、ラスト30分の場面でメインを務める2人は明らかに「神」の比喩である。「北欧映画の根底に流れるのは"神"の視線」という淀川長治氏の言葉は今更ながら至言だ。
(初出・REAL東京)

その濃厚さと重量と素晴らしい文体の3時間に圧倒されるべし。通常のハッピーエンド映画ならそろそろエンドマークが出そうという展開まで1時間。そして、そのあたりから少しずつ物語には暗い気配が漂い始める。その後すべてを費やしてどす黒さが頂点に達した時、映画は崇高さすら帯びて一気に終了する。あなたの楽しみを損ねぬよう、かなり言葉を選び紹介しているのだが、ラスト30分でメインを務める2人が「神」の比喩であることだけは書いておこう。「どの監督の作品であろうと、映画にはお国柄と言うものがあり、アメリカ映画の根底に流れるのは"やったらやれる"という精神だとしたら、北欧映画にあるのは常に"神"という視点だ」淀川長治氏がかつてそう語っていたことが思い出される。
(若干長い未発表ヴァージョン)

「クリビアにおまかせ!」 60年代オランダのTVドラマが30年後に映画化し人気再燃とか。ただし宣伝文句の「ご近所ミュージカル」なんてとんでもない、モンド好きのあなたにこそお薦め。まず全員が心を病んでいる(『ファインディング・ニモ』など、この構造は最近多し)。いい味の脇役たちも含め、突然みんなで歌い出すそのテイストはまさに躁状態の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」。微妙にスローな画面にリップシンクさせたり、細かい毒も見もの。そして何も解決せぬまま大団円。「シザー・ハンズ」やピーウィー・ハーマン的パステルカラーの毒入りケーキ、召し上がれ。
(初出・REAL東京)