夢の中でこれが夢かどうか確かめる方法はあるのか。この映画はそういう作品だ。浮遊感にあふれる"内容"と"映像"。出会う人全員が深遠な哲学を次々語っていく面白さ。実写映像の上に色を塗る手法は、まんまビートルズのアニメ「イエロー・サブマリン」の"Lucy
in the sky with diamonds"。ファースト・サマー・オヴ・ラヴから脈々と続く"サイケデリック文化"は、いつしか"ニュー・エイジ文化"と呼ばれ、"洗練"という要素すら加味して日常に当たり前に溶け込んでいる。さながら、この映画の冒頭から流れている趣味の良い室内楽やジャズのように。
(初出:REAL東京)
最初から最後まで浮遊感にあふれる「内容」と「映像」。
「内容」は、現実か夢の中かわからなくなってしまう主人公。どこへ行っても、多種多様な人物がひたすら深遠な話をモノローグで彼に語る。「現実と夢の違い」「存在とは」「人生とは」…。
見方を変えれば、哲学的で興味深いモノローグ短編のオムニバス的ともいえる構成だ。
ニュー・エイジ映画の名作として、以前たっぷり論じた「スキゾポリス」の監督S・ソダーバーグがこの映画で哲学の語り部の一人として登場しているのも偶然ではない。
「映像」は、"現実感溢れる動き方のアニメ"であり、それがまた「現実と非現実のあいまいな境界」を象徴しているかのようだ。実写映像にアート感満載の彩色を施しているその手法は、どうしても「イエロー・サブマリン」の"Lucy
in the sky with diamonds"を思い出してしまう。「イエロー・サブマリン」とは"サイケ時代のファンタジア"としてフラワー・チルドレンたちを熱狂させた名作アニメ映画だ。
そういう意味では、内容・手法ともに、"精神世界とポップ・カルチャーの融合"と言う意味で、まさに正統な末裔ぶりである。ファースト・サマー・オヴ・ラヴから脈々と流れる"サイケデリック"は"ニュー・エイジ"と変質し、"洗練"という要素すら加味し、日常の中に当たり前に浸透しているのが21世紀の今だ。さながら、この映画の冒頭から流れている趣味の良い室内楽やジャズのように。
観ている間中、この映画全体から「リアルとは何か?」という命題を浴びせられ続ける。「この映画を観ている自分の人生とて、夢かもしれない」――ふと浮上するその思いを否定できる根拠はない。"現実"と"虚構"の壁が極限まで薄くなった時感じる心地よさを、この映画で体験したまえ。
(未発表・硬派バージョン)
もし僕がこの映画を一言で説明しなきゃならないとしたら、「最初から最後まで浮遊感にあふれる"内容"と"映像"」となるのかもしれない。まさに、そういう映画だと思う。幸いにして、一言より多い字数を使って、その魅力を伝えさせてもらえるようなので、ちょっと、聞いて欲しい。 1)「内容」
現実か夢の中かわからなくなってしまう主人公が、その真実を確かめようと、歩きまわり、いろんな人に会うというだけのストーリーである。最初の人物が、ひたすら深遠な話をモノローグで彼に語り始める時が要注意。この場面を、単に「"何やら難しいことを語る人"登場のシーンね、はいはい」なんて誤解して、語っている内容を適当に聞き流してしまうと、もう乗り切れなくなる危険性大。なぜって、この映画は全編に渡って、こうだからだ。主人公の前に現れる人全員がそういうことばっかり話す映画なんだから(笑)。
彼らが語る内容は、「現実と夢の違い」「存在とは」「人生とは」「愛とは」「言語とは」「コミュニケーションとは」…。見方を変えればこの映画は、哲学的モノローグばかりをつないだショート・フィルム集ともいえるのだ。そんな"深遠な哲学"の語り部の一人として、S・ソダーバーグ監督なんかも登場しているから、その確信犯ぶりに苦笑させられる。彼は「トラフィック」「オーシャンズ11」もそつなく撮る監督だけど、実は好き勝手にさせたら「スキゾポリス」を撮ってしまう人間なんだから(この超ニュー・エイジ映画については、『スキゾポリスの歩き方』でたっぷり書かせてもらっているのでひとつ読んでほしい)。 2)「映像」
"現実感溢れる動き方のアニメ"であり、それがまた「現実と非現実のあいまいな境界」を象徴しているかのようだ。どういうアニメかといえば、実写映像の上に色を塗る手法。実写(現実の動き)は、無駄な動きに溢れている。ストーリーに不必要な指先の動き、黒眼の微妙な動き、絶えず変わる目尻のニュアンス…。そんな無駄な動きが、本来は無駄が一切存在しない"アニメ"という手法で観た時の奇妙な感覚。
その彩色がまた、アート感覚満載なものだから、クールなイラストが生々しく動いている奇妙な感じだ。だから、どうしてもビートルズのサイケデリック・アニメ映画「イエロー・サブマリン」の"Lucy
in the sky with diamonds"を思い出してしまう。「内容」・「手法」ともに"精神世界とポップ・カルチャーの融合"だなんて、この映画はもう、60年代サイケデリック・カルチャーの正統な末裔といえるわけだ。
ファースト・サマー・オヴ・ラヴから脈々と流れ続けた"サイケデリック文化"は、いつしか"ニュー・エイジ文化"と呼ばれるようになり、"洗練"という要素すら加味して日常に当たり前に溶け込んでいるさまは、さながら、この映画の冒頭から流れている趣味の良い室内楽やジャズのようだ。これが、ビートルズが60代になり、フラワー・チルドレン第一次世代が50代になっている2002年の世の中なのだ(誰がこんなクールな時代を予想したことだろう!)。
この映画を観ている間中、あなたは「リアルとは何か?」という命題を浴びせられ続けるだろう。「この映画を観ている今この瞬間の自分だって、たとえば誰かが死ぬ前に一瞬見る夢の中の人物なのかもしれない」――ふと浮上するその仮説を否定できる根拠は何もない。"現実"と"虚構"の壁が、0.01ミリくらいまで薄くなった感覚の心地よさ。それこそがこの映画が与えてくれる快楽だ。
「チョコレート」
監督:Marc Forster
主演:Halle Berryキ
「メン・イン・ブラック2」
監督:Barry Sonnenfeld
主演:Tommy Lee Jones, Will Smith
77年製作のショート・コント・オムニバス映画。
「モンティ・パイソン」をアメリカ的にしたら、こんなに翳りがなく(良い意味でも悪い意味でも)POPになるのかという見本。英国のストーンズと米国のエアロスミスの違いと言えばわかってもらえるだろうか。ビートルズとキッスでもよいが。
字幕だけを見ていた20数年前より新発見も多かった。
大ネタ「燃えよドラゴン」のパロディは、音楽や台詞まで実に細かくパロっていることがわかる。
例えば、ブルース・リーが少年に指導するシーンの有名な台詞"Wha' was that?"まで確信犯的に登場する。
また、地下牢に閉じ込められた廃人たちを悪の首領はこう形容する。
"They don't know where they are and they don't care ."(こいつらは自分たちが今どこにいるのかも気にしない連中だ)。この映画ではそれを受けて、廃人達の会話はこうだ。"Where
are we now?"(俺達、今どこにいるんだ?) "I don't care."(どこだっていいじゃん)
。
まだギャグは続く。別の牢の前で首領がこう形容する。"They don't know where they are and
they don't drink."(こいつらは自分たちが今どこに居るのかも知らず、そして酒を飲まない連中だ)。その牢の中の二人の会話は
"Where are we now?"(俺達、今どこにいるんだ?)"I don't drink."(俺は飲まないよ)。
ポルノ映画の予告編ネタも面白かった。
主演女優リンダが一人ごろごろと芝生の上を転がり "She's doing classic role!" (役と転がるの意味をかけている)。リンダの両側に裸の女優を更に二人両脇座っている画面にかぶせて"Introducing
Nancy & Susan!"(期待の新人、ナンシーとスーザン!の意)という文字が躍り、真ん中のリンダが「スーザン、こちらがナンシー。ナンシー、こちらがスーザン」と単に紹介(=Introducing)するのだ。
今回、「字幕監修・みうらじゅん」ということで相当期待して臨んだのだが、以上のようなギャグがわかりやすく字幕に反映されているわけではない(せいぜい『ドラゴン イカレの鉄拳』あたりにその味を感じた程度だった)。残念である。
(Unreleased long-version)
デビュー作(『ショーシャンクの空に』)・2作目(『グリーンマイル』)と、スティーブン・キング原作ものが続いたダラボン監督の3作目はオリジナル脚本。赤狩りのファシズム吹き荒れる時代が舞台。右傾化を憂慮するそのテーマは、9.11以降イスラム擁護論が白眼視されがちの今だからこそ重要な意味を持つ。ハリウッドを襲った赤狩りに興味がわけば、ヨーロッパに亡命して映画を撮った男「ジョセフ・ロージー/四つの名を持つ男」を観るもよし。
予告編から想像するに、浦島太郎(タイムスリップ)系か、あるいはかぐや姫(『E.T.』)系かと思いきや、単なる記憶喪失ものだったのは意外。根底にハリウッド映画讃歌もあるため、大人のニュー・シネマ・パラダイス的な趣きもある。「アトランティスのこころ」なんかもそうだが、大作ムードをはらみながら惜しくもそこまでは化けきれなかった作品。コーエン兄弟の「バーバー」が、小品ムードなのにかなり凄い作品だったのとは対照的だ。
(unreleased long version)
多元宇宙にいる自分を順に殺していき全宇宙で唯一になった時その人間は全知全能の存在になれる、と気付いた凶悪な男。そんな彼が狙う最後の1人がこの映画の善玉であり、演じるのはもちろんどちらもジェット・リー(笑)。彼がいかに強くて速いかを示す描写として、銃弾の雨がゆっくり向かってくるすきまをよけつつ数人を撃ち殺し、空中に舞う数人を蹴り倒す。マトリックスとも違う「サイボーグ009の島村ジョウが加速装置をONにした世界」の実写化。1人が上着を脱ぎどちらが善玉か観客にわからせたり、2人同じ服を着てどちらが善玉かわからなくさせたりと、1人2役モノの定石も次々登場。
B・リー(李小龍)の後継者的役割を少しでも果たさんとの志を感じさせるジェット・リーだけに、自分自身と戦うシーンは、「もしB・リーが生きていたら」を想像させる。武道を極めた者に与えられる高次の課題としての“まったく同じ力量の相手と戦うにはどうするか”という設定を、映像世界の技術革新に伴い(自分とのメンタルな戦いという哲学的内容ともからめながら)娯楽性を両立させたマーシャルアーツ映画として呈示する可能性は高い。
ラストの大オチは一見ハッピーエンド風だが、よく考えると問題は山積み。CG特撮チームはOPの多元宇宙の描写をはじめ、かなりクールな仕事ぶり。
(初出 POP ASIA 41号)
125もの多元宇宙にいる自分を順に殺していき、全宇宙で唯一の自分になった時その人間は全知全能の存在になれることに気付いた凶悪な男の物語。
彼がいかに強いかといえば、バイクを片手に1台ずつ持ち上げまるでダンボール製みたいに振り回し敵をはさんで倒したりする。また、物凄い速さで戦う描写として、銃弾の雨がゆっくり向かってくるのをよけつつ数人を撃ち殺し、空中に舞う数人を蹴り倒す。マトリックスとも少し違う、まさに「サイボーグ009の島村ジョウが加速装置をONにした世界」としかいいようのない概念の実写化。
そんなに強くて悪い彼が狙う最後の1人がこの映画の善玉であり、演じるのはもちろんどちらもジェット・リー(笑)。1人が上着を脱ぎどちらが善玉か観客にわからせたり、2人同じ服を着てどちらが善玉かわからなくさせたりと、1人2役モノの定石も次々登場。
B・リー(李小龍)の後継者的役割を少しでも果たさんと志を感じるジェット・リーだけに、同じ強さを持った自分自身と戦うシーンは、「もしB・リーが生きていたら」を想像させる。
リーが今も生きていたら、映像世界の技術革新により、(武道を極めた者が次に与えられる課題として)“まったく同じ力量の相手と戦うにはどうするか”という映画を撮った可能性は少なくない。おそらく、「自分とのメンタルな戦い」という哲学的内容とも絡めながら、娯楽性をも両立させたマーシャルアーツ映画として、呈示したのかもしれない。あの豊かな表情と声と戦い方を2ヴァージョン呈示して、僕らを魅了してくれたのだろう。悪玉のリーは少〜し凶悪な演技で(笑)。そんなことを想像しながら、ジェット・リー同士の戦いを観るのは実に興味深かった。
(unreleased long version)